わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。(イエス・キリスト)
2021年11月1日
"これを聞いて、イエスは彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」"
マルコの福音書 2章17節
《解説書からの学び》
@聖書箇所の背景
イエスのために、マタイが開いた宴会には、マタイの友人である取税人や罪人たちが招かれていました。罪人と食事をと
もにするなら、身が汚れると考えていたパリサイ派の律法学者たちはそれを見て、不快に思いました。
Aイエスの目的
イエスは罪人や弱い人を招くために来られたのです。
Bパリサイ人の問題点
自分が病人だと気づけなかったことです。
《恵みのひとしずく》
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」
イエスのこのことばを読むたびに、私はいつも慰められてきました。社会から落ちこぼれている、身も心も弱虫だと思うたびに、このことばに勇気づけられてきました。
イエスは、罪人を招くために来られたということを知るだけで、できそこなっている自分もイエスが受け入れてくださることがわかって、うれしくて、立ち上がる勇気が与えられて、招いてくださるイエスの前に、安心して立てるような気がします。
病気は心を落ち込ませ、生活を苦しくさせますが、体の病気より魂の病のほうがもっと深刻です。私のプライドが自分も人も傷つけ、あげくのはてに自分を落ち込ませているのかもしれません。私は助けてもらわなくても大丈夫という意地を捨てて、私の魂を癒してくださるイエスのもとに行きたいと思います。
私は弱いくせに、自分が傲慢であることにも、なかなか気づけない者ですけれども、神様の前にへりくだり、神様からの赦しと、平安をいただく者でありたいと思います。
2021年11月2日
"わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた
父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。"
ヨハネの福音書 12章49節
《解説書からの学び》
@聖書箇所の背景
これはイエスが語られたことばです。父とは父なる神のことです。この前の節でイエスは、イエスを信じない者は、終わりの日に、イエスから聞いたことばによって裁かれるのだと語っておられます。
Aイエスのことば
イエスは、父なる神から語るように命じられたこと、そのままをお語りになりました。
B伝道者の使命
神の命令は、信じる者に永遠のいのちを与えます。イエスはそれを知っておられたので、神が命じるとおりに語られました。クリスチャンもイエスと同じように、神のことばを正しく、そのまま伝える使命があります。
《恵みのひとしずく》
まず、私はイエスがどのようなお方なのか、理解する必要があります。
12章44節から47節で、イエスがご自身について語られている内容は、イエスがメシアであること、イエスを見ることは父なる神を見ることであること、イエスは光としてこの世に来られたこと、イエスを信じる者は救われるということでした。
イエスを信じる者は救われ、イエスを信じない者は、終わりの日に、イエスから聞いたことばによって裁かれるとは、なんと厳粛な気持にさせられることでしょうか。
そしてイエスは47節で、信じない者であっても、その人を裁かないと語っておられます。それは、約2千年前にイエスが来られたのは、世を裁くためではなく、世を救うためであったからです。
イエスを信じるとき、サタンの闇の王国から解放され、愛と光の神の御国に導かれます。かつて私は、命や死、永遠に関して無知な者でしたが、イエスを信じて真理に導かれました。
聖書に書かれている奥深い内容を、私はまだその全てをわかってはいませんが、イエスを信じたときから、心の中に消えない光が灯っています。
それは多くの人々が希望と呼んでいるものです。
光も希望も、元々私の中にはありませんでした。イエスによって与えられた恵みです。私に与えられたこの恵みが、一人でも多くの方にも届くように、私もイエスのように、神から語るように命じられたこと、そのままをお伝えする者になりたいと思います。
2021年11月3日
"戸はちょうつがいで向きを変える。怠け者は寝床の上で。"
箴言 26章14節
《解説書からの学び》
@聖書箇所の背景
怠け者の特徴が絵画的に表現されている聖句です。
A怠け者の特徴1
戸がいくら回転してもちょうつがいで止められているところから離れないように、なまけ者も寝床から離れません。
B怠け者の特徴2
寝床を愛するということです。
《恵みのひとしずく》
怠け者は、怠ける口実をもうけるということが、解説書に書かれていました。その例として、箴言22章13節が紹介されていました。「怠け者は言う。『獅子が通りにいる。私は広場で殺される』と。」
山や森に住む獅子が、広場を歩きまわることなどあり得ないのに、怠け者は理屈の通らない言い訳を主張することが指摘されていました。
私たちの住む現代社会を考えてみると、様々なことに心を使わなければならないことに気づかされます。そんな中、人を気遣うあまり、自分の持てる体力、能力、生活力の限界を越えてまで、人々の要求に答えようと過剰適応し、やっとの思いで今をつないでいる人たちが、少なからずおられます。
そのような人たちには休息と、イエスのもとでの安らぎ、慰めが必要です。しかし、何かを行う力が与えられ、環境が整えられているのに、心が向かないからといって、自分に与えられている責務を果たそうとしないのは、神の恵みを無駄に受けていることなのだと、私は教えられました。
あっという間に過ぎていく日々の時間の中に、じっくりと聖書のことばに向き合う時間を取り分けて、快適さに喜びを見出している今の自分から、イエスのことばに従うことに喜びを感じる、新しい価値観を持つ者へと、変えられていくことを求めていきたいと思います。
2021年11月4日
"このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」"
使徒の働き 20章35節
《解説書からの学び》
@聖書箇所の背景
パウロが第三次伝道旅行のときに、ミレトでエペソの長老たちに向けて語った言葉です。引用されている「受けるよりも与えるほうが幸いである」とは、どの福音書にも書かれていませんが、イエスのことばとして伝えられてきたものだそうです。
Aパウロの人生の原則
パウロは天幕作りに従事し、自給伝道を行ってきました。自ら手本を示し、必要ならば自給伝道を実践するよう、長老たちを励ましました。しかし、その考えを人に押しつけることはせず、他の聖書箇所では、霊的な奉仕から生活の糧を得ることは、当然であるとも教えています。
《恵みのひとしずく》
自分がすでに与えられているものを、他の必要としている人に分かち合うことは、親しい人同士の間ではよく見られることです。私もこれまで、どれほど多くの方々にそのような愛を受けてきたことかと思います。
教会においても、誰からということは告げられずに、これをあなたのためにということで預かりました。神様からと思って受けとってくださいという言葉とともに、困窮している人に手が差し伸べられることがありました。
海外のつつましい生活を送っている地域では、自分たちのわずかな食糧を旅人に分け合う風習があることを、旅番組で見たりします。
聖書に書かれている「良きサマリヤ人のたとえ」では、行き倒れになっているユダヤ人を、通りがかったサマリヤ人が助けました。普段からサマリヤ人はユダヤ人から、差別と偏見の目で見られていたにもかかわらず、この人は瀕死の状態のユダヤ人を憐れみ、介抱しました。
そして、一番驚くべきことは、イエス・キリストが私たち罪人のために、ご自分のいのちさえも差し出され、私たちに、罪からの救いの道を開いてくださったことです。
私はイエスからいのちをいただき、生かされている者です。生きるために必要なものは、すべて神様から与えられています。こんなにも多くの愛に取り囲まれながら、生かされてきました。
私も私に与えられているものを、分かち合える者になりたいです。今まで私が受けた愛を思い起こしながら、感謝と喜びをもって、私が受けたものを、必要としている人に差し出せる者になりたいと思います。
2021年11月5日
"いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。"
ピリピ人への手紙 4章4〜5節
《解説書からの学び》
@聖書箇所の背景
この聖句が書かれているピリピ人への手紙は、パウロがローマの獄中にあったときに、皇帝ネロによる尋問が行われるのを待っている状況の中で書かれました。
この手紙はパウロから、ピリピの信者たちに向けて書かれ、エパフロデトという人によって、ピリピの教会に届られました。
A喜ぶ理由
「主にあって」とは、私たちがキリストを信じて信頼し、必ず最善がなされることを信じているなら、どのような状況に置かれていたとしても、喜びの理由を見つけることができるということです。神の愛、神の恵みにより与えられた一つひとつを思い起こすなら、自然に心から喜びがわきあがってきます。
B平安の秘訣
神への祈りの中で、私たちの思いわずらいを、そのまま神に申し上げるなら、神に知っていただいているという確信が、私たちを平安に導きます。「人のすべての考えにまさる神の平安」が私たちに与えられます。
「主は近いのです」とは、キリストの再臨が近いということと、キリストが私たちの近くにおられるということの、両方の意味が含まれているそうです。
《恵みのひとしずく》
パウロはかつて、キリストを信じる人々を迫害していた人でした。その人がキリストを知って、価値観が変わり、キリストを知っていることのすばらしさを伝える人になりました。
パウロはキリストを信じて以降、途方もない神の恵みに圧倒される体験を、数えきれないほどしてきたと思います。
喜びなさいというパウロの言葉には、迫害の中にあっても、キリストにある喜びが、自然に湧き上がることを体験してきた者の証言としての重みも感じさせられます。
パウロが気づかせてくださった、キリストにある喜び、キリストにある平安を思い、思わず笑みがこぼれる日々を過ごさせていただきたいと思います。
街中を歩くとき、向こうからやってくる人が、あれっ?という不思議そうな顔をして、振り向かれるような、あなたの喜びの源は何ですかと問いかけられていることを感じるような、私たちのキリストにある心の喜びが、外側にもあふれている生活を送らせていただきたいと思いました。
2021年11月6日
"子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。
そうすることによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。
たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだからです。"
ヨハネの手紙 第一 3章18〜20節
《解説書からの学び》
@言葉と行動の一致
真実な愛は行動によって証明されます。
A心の平安1
「真理に属する」とは救われていることであり、真理とはイエス・キリストです。平安は、私たちの内面をすべてご存じである神の御前にあって、与えられるものです。
B心の平安2
私たちは罪を隠すことで平安を得ることはできません。私たちが平安を得る唯一の方法は、神の恵みを信じることです。
《恵みのひとしずく》
本当の愛とは無私の心だと教えられました。聖書に書かれている放蕩息子のたとえ話の中で、放蕩息子が回心して家に帰ってきたとき、父親は大喜びで迎えましたが、放蕩息子の兄は怒り、弟を許すことができませんでした。父親の心を慮ることもできませんでした。
喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣く者になるように、パウロは勧めました。これは愛の具体的な表現です。放蕩息子の兄は、自分は働きづめに働いてきたのに、弟は好き勝手に生きて不公平だとすねてしまいましたが、実際には兄は、多くのものを与えられており、生活も保証されていました。
たとえ兄がわがままな弟に対して、腹をたてたとしても、父の心を知り、父の思いを大切にしたいと思うなら、怒りを収めたことでしょう。喜んでいる父親と一緒に、家に帰ってきた弟を、喜んで迎え入れたことでしょう。私も自分の思いよりも、神の御心を優先できるようになりたいです。
放蕩息子の兄と同じように、私もよく怒ったり、すねたりします。そんなとき、私の弱さをすべてご存じの神に赦しを乞い、神の恵みと憐みにすがり、神への信頼を告白して、心の平安を受け取る者になりたいと思います。
2021年11月8日
"持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っているものまで取り上げられてしまうからです。」"
マルコの福音書 4章25節
《解説書からの学び》
@聖書箇所の背景
イエスがこのことばを語られる前に、種まきのたとえを話されていました。そのたとえ話の中で、種とは神のことば、土地にたとえられているのは、聞く人の心だということです。神のことばにどう応答するかで、人生が決まることを教えられます。
A応答する準備
神は聖書全巻を通して、「あなたは、どこにいるのか」と問いかけておられ、私たちの応答を待っておられます。
B良い地とは
良い地とは新生し、神のことばに根ざし、学んだことを実践する人であり、そういう人は御霊の実を結び、多くの人を救いに導き、神の栄光を表すようになります。
《恵みのひとしずく》
どのような決心をもって、神に応答しようとしているのかを、自分自身に問いかけられている聖句だと思います。
種まきのたとえの中で、4つの土地(私たちの心)があることを教えられました。道ばたの地は不信仰な人のこと、岩地とは福音を信じても、困難がくると信仰が枯れてしまう人、いばらの土地は、神のことばの知識が増えても、それを実生活に適用しない人のことだと学びました。
神のことばを受け取り、神のことばに根ざし、学んだことを実践してこそ成長していけるのだと教えられました。
良い地は良い実を結びます。それとは逆に、神のことばを受け取ってはいても、神のことばから離れた生活を送っているなら、成長することも実を結ぶこともできません。
「持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている物までも取り上げられる」とは、今も生きている原則だということを学びました。私が聖書のことばを読むとき、学ぶとき、ただ、聖書を開いたり閉じたりするだけの者になりませんように。神に助けられ、聖書のことばを通して、神が私に語りかけておられることを、実践できる者になるよう変えられたいと思います。
2021年11月9日
"主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。"
詩篇 23篇1節
《解説書からの学び》
@聖書箇所の背景
詩篇22篇は「苦難の中の祈り」であり、詩篇23篇は「【主】への信頼の歌」だそうです。神が羊飼いにたとえられています。羊たちが飼われているユダの荒野は、荒涼とした土地です。
A苦難の中の【主】の守り
人生の中で、荒野を歩いているように感じるときがあります。そのようなときも、神は私たちを、緑の牧場、いこいの水のほとりに導いてくださいます。
《恵みのひとしずく》
羊飼いは羊のそばを離れません。迷わないように一匹一匹を見守り、羊をねらう野獣から守り、羊たちを緑豊かな野山に導き、養い育てます。
私にとって、イエス・キリストを通して近づくことのできる神は、そのようなお方です。
人生の中で、キリストを信じたことは、私にとって最大の奇跡であり、恵みです。神はイスラエルの民の荒野での40年間の生活を見守り、何一つ欠けたものがないように祝福を注がれました。
同じように、私に困難な状況がおとずれるとき、神が私のそばを歩いてくださっていることを思い起こすなら、安心と慰めを得ることができます。
この詩篇の最後に「私はいつまでも、【主】の家に住まいます。」と歌われています。私も、私を訓練し、守り、敵と和解させてくださることのできる【主】に感謝を捧げ、【主】の家に住むことの祝福を思いながら、同じ告白を神におささげしたいと思います。
2021年11月12日
"来たるべき世において立派な土台となるものを自分自身のために蓄え、まことのいのちを得るように命じなさい。"
テモテへの手紙 第一 6章19節
《解説書からの学び》
@聖書箇所の背景
テモテの手紙第一6章17〜19節は、富む者への警告であり、豊かさの中に潜む危険や、裕福な者の責任などが書かれています。
A信頼すべきお方に信頼する
地上の富は不確かなものです。すべてを与えてくださる神に望みをおくべきです。
B神から与えらえたものを有効に用いる
「来るべき世」とは、地上生涯の先にある来世のことです。
私たちに神から与えられた賜物は、良い行いをするために用いるべきであり、施しをしたり、神の国拡大のためにささげることは、「来るべき世」に備えて良いわざに励んでいることです。
《恵みのひとしずく》
一人の裕福な若者がイエス・キリストのところに来て、「先生、永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」と尋ねました。
ユダヤ教の考え方では、富は神の祝福のしるしであるはずなのに、若者は、永遠のいのちを得ているという確信がなかったのです。
若者の目の前には、メシアであるキリストがおられました。
この場面の聖書解説では、若者が「あなたこそメシアであり、神ご自身です」と告白していれば、永遠の命を手にしたはずだと書かれていました。しかし、彼は多くの富を持っていたことで、神よりも富に信頼を置くようになっていました。
財産を持つことは祝福ですが、富が神の位置を占めるようになるのは不幸なことです。若者にとってだけでなく私にとってもです。
なぜなら私の命はキリストのうちにあるからです。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」とキリストは言われました。
私が自分の罪によって滅びていくのではなく、永遠の命を授かるためには、イエス・キリストの十字架を受け入れること以外に道はありませんでした。
与えられた賜物も、財産も、自分のどんな努力も、私の魂の救いのためには、何の役にも立ちませんでした。
イエス・キリストの十字架を受け入れて、罪の赦しを神から受け取ったときに与えられる平安は、何物にもまさります。
今日も私は、神から与えられる平安の中で過ごせることに感謝し、神からの恵みによって、健康や持ち物、賜物を、与えられていることに感謝して、それらを良いことのために使っていけるように、神に祈りたいと思います。